がれきの中から立ち上がれ、涙をこらえて ー随想 20ー

                    
 平成7年1月17日未明午前5時46分、激しい振動で目が覚める。地震だ。棚の上から物が落ちてくる。非常に大きな地震だ。10秒、20秒縦ゆれから横ゆれに変わる。一体なん秒続いたであろうか。
 すぐに2階、3階にいる子供たちの安全を確かめにいく。真っ暗で何も見えないが、全員無事だ。ゆれがおさまり、明りを持って外に出る。まだ暗い。火事がこわい。大声で叫ぶ。
「火を消して、火を消して」と。
 携帯ラジオを捜し当て情報を知ろうとするが、情報が入らない。30分ほど経ったであろうか「神戸震度6」との情報が伝わる。烈震だ。3割の家が倒壊の恐れがある。この辺りの家の倒壊はない。まず、一安心。高取山の方を見る。赤い。火事だ。長田の近辺は住宅密集地帯だ。こりゃ大変だ。
 周りの安全を確かめ学校に急ぐ。息子の運転でまだ薄暗い道を急ぐ。AM神戸の放送が聞こえる。スタジオは半壊の状態で放送が続けられている。自転車でかけつけたアナンサーが垂水、須磨、長田の被災の状況を告げる。ひどい状況だ。
 道路は思いのほか空いている。でも、帰りが大変なので大池で車を降りる。急いで唐櫃まで歩く。家の屋根瓦が落下しているが、家屋の倒壊はない。まず、安心。上唐櫃と唐櫃台の唯一の連絡橋である歩道橋を歩く。安全を確かめつつ歩く。ところどころ割れ目がある。しかし、気をつけて歩けば大丈夫のようであるが、余震後が心配だ。唐櫃台に入る。不安気に子供たちが外に出ている。安全であることを確かめ、休校であることを伝え、余震に気をつけるように伝える。
 学校に着く。もう運動場には3、40人の方が避難されている。不安に怯えた顔、顔、顔。情報が分からない。乱雑に散らかった放送室よりラジオを探し運動場に出す。刻々と伝わる被害の様子。長田区の南部の火災がひどい。
 時々、体に感じる余震が続く。職員室も校長室も事務室も保健室も管理員室もひどい。
 校舎内を見まわる。あちらこちらに亀裂が入っているが倒壊の恐れはない。各教室にはオルガンが倒れ、落下物が散乱しているが、不思議なことにテレビは一台も落下していない。一番心配であった講堂を見てみるが、まず安心。
 刻々と伝わる火災の情報。心が痛む。でもどうすることもできない。いつの間にか、電気がついた。テレビで見る被害の様子にこの地震のすごさを感じるが、まだ切迫感はない。唐櫃地域は断水とのこと。地域から水を貰いにこられる。高架水槽に貯えられてだけしかないが。
 神戸電鉄は走らない。通勤手段を奪われた教職員は電話連絡で現在の様子を報告。遅れながら、車で通勤してしてきた教職員と共に授業再開に向けて準備を進める。
 しかし、時間が経つにつれて、被害の大きさが伝わる。21、26、27、28号棟が倒壊の危険性があるという。あちこちでガスが漏れてガス臭い。神戸電鉄は回復の見込みがないという。唐櫃地域も水もガスも出なくなる。避難をされてくる方々が多くなる。いろいろと対応が忙しい。これでは、明日も休校をせざるをえない。 民間テレビもコマーシャルもない。すざましい被害の状況を部分的に映しだす。全体の被害の状況を知る夕刊がまだ来ない。
 唐櫃小学校への避難者が120名にもなる。水がない。トイレの水が必要である。校舎内からバケツを集め、プールの水で流してもらう。夕方、道場婦人会よりおにぎりが届く。避難者に配る。PTAが14日に購入した石油ストーブが早速役に立つ。避難者の体だけでなく心も暖かくなる。
 夜に水が届く。
 学校を教頭に任せ、本校の先生の車で11時頃に自宅に帰る。
 わが家の建物はは大丈夫であるが、水が出ない、ガスが出ない。小さな電気ストーブで暖をとっている。
 テレビでは、長田区、兵庫区、東灘区の火災の様子が報道される。「誰か、火を消して」と願うが火は延焼するばかり。それだけでなく、長田区ばかりではなく、兵庫区にも、東灘区にも火の手があがる。あの辺りには○○さんが住んでいる。ここには○○さんの家がある。辺りの情報を知りたいが、電話は全く通じない。
 翌朝早く、息子の車で学校に急ぐ。
 夜中にも避難者があった。130名の避難者に、朝のおにぎりが八多婦人会の炊き出しにより届く。
 18日の朝、17日づけの夕刊がくる。神戸新聞社の社屋、新聞製作コンピュータが壊滅的な損傷を受けつつも、4ペ−ジだけの紙面であったが発行された。18日づけの朝刊には、「兵庫烈震死者1300人」の大きな見出しとともに神戸沖から撮影した「炎上する神戸市街から立ちのぼる黒煙」の写真が一面に掲載されている。悪夢の烈震の後の生々しい被害の様子や倒壊した民家の屋根から住民を救出する人々、炎上する家々目を覆いたくなる。しかし、これが現実なのである。
 時間が経つにつれて、神戸市内の被害の様子が分かってくる。死者の数も2千人を越えた。いったいどこまで被害が大きくなるのか。心が痛む。
 唐櫃台を見て回る。26、27、28号の市営住宅は6、70センチも浮いてしまった感じである。どうもこの辺りが大きく地すべりしたようである。道路の痛みも大きい。
 先生方に子供の家の様子を把握するために家庭訪問をお願いする。上唐櫃、下唐櫃の民家も全壊はないが、余震がくれば全壊する恐れがある家も多い。
 19日、本校の前校長が勤務されている、稗田小学校の様子を聞く。ひどい。早速支援をしなければ。炊き出しをしている北給食センターも、人手がいるという。これにも支援しなければ。本校も避難されている方々も多い。でも、もっと被害が大きい所に支援の手をさしのべていくことが何よりも大切だ。教職員と相談をする。
 広島から静岡から水が届く。救援物資も届く。神戸市内には全国各地から多くの救援隊がぞくぞくとかけつけてくださっている。通勤途中で和田山からの消防車がぞくぞくと神戸へ向けて急いで走らせている。「ありがとう、ありがとう」と心の中でつぶやく。涙がでる。全国の多くの方が神戸のためにかけつけてくださっているのだ。頑張らなければ。
 吉川高等学校からおにぎりが届く。一つ一つに塩こぶや梅干しが入り、その一つ一つにがラップに包まれている。温かい愛のこもったおにぎりだ。
 夜の10時、稗田小学校から教員が帰ってくる。もう声もでない。学校の回りは倒壊した家々、茫然と立つ人々、避難された人々で足の踏み場もない校舎内、すぐ側の公園で野宿する人々、食料と水を求める地域住民、校区内一体ががれきの山という。
 それだけでなく、鉄道、道路、ライフラインが全滅である。都市機能が全く働かない。このような事態を誰が予想したであろうか。 土曜日、日曜日に関係なく職員の活動が始まる。本校での支援、稗田小学校への支援、そして北給食センターでの炊き出しの支援。教職員も自分の家のことはそのままで、もっと大変の所に救援に行ってくださる。
 土曜日に避難勧告がでる。本校だけで180名を越す。唐櫃中学校、神戸北高校にも多くの方が避難される。
 大震災から5日目、鈴蘭台からバスで神戸まで出る。1時間半まってやっと市バスがくる。神戸駅前について被害の大きさに驚く。ここから、丸山行きのバスを待つが来ない。仕方がないので歩く。新開地もひどい。湊川あたりもひどい。あまりの被害の大きさにもう歩けない。ただ佇むのみ。涙が出て止まらない。
 途中で家に連絡がつき娘が車で迎えにきてくれると言うがなかなか来ない。半時間も待ってやっと来る。ここから丸山までが大変だ。学校を5時に出て、家に着いたのは10時を過ぎていた。疲れきってただ寝床にもぐるのみ。
 23日午後、雨の中子供たちが500名余り運動場に集う。みんあ元気だ。でも、家が半壊の状態でこの唐櫃にいない子もいる。
「美しい神戸の町は、今、がれきと化した。多くの人が、みんなと 同じ小学生のお友達が47名もがれきの下敷きになり亡くなった。
 この苦しみを乗り越えて、みんなと力を合わせてもう一度美しい 神戸の町を復興させよう。」と子供たちに語る。そして、みんなと早く勉強したいが、まだ勉強できる状況でないので、あと1週間臨時休校を告げる。子供たちも寂しそうである。
 29日日曜日、新神戸から家まで歩いて帰るつもりで、明るいうちに学校を出る。山手幹線を歩く。大きなビルが破壊されている。県庁前にある1923年に建築された赤レンガの栄光教会の、十字架をいただいた高さ20メートルの塔が根元から倒れ、道路をふさいでいる。ふと、50年前を思い出す。戦後、父と一緒にここを訪れた。まわりは焼け野原であったが、この教会の塔は青空に建っていた。その塔が今はもうない。目がかすんで何も見えない。
 長野、松本、大阪、広島、京都その他神戸以外のナンバーをつけたNTT・機動隊・水道工事の車が走り、不眠不休で復旧工事を続けられている。後ろばかり向いていては駄目だ。前を向かなければと自分で自分に言い聞かせる。
 あちらこちらで、もう復興のツチ音が聞こえる。もう一度美しい神戸の町を作りだそうとしている。がれきの中で温かいうどんを食べさせてくださる店もある。がれきを集め道路を確保するために働く人たちがいる。全国各地からボランティアが避難所にかけつけ日夜を通して働いてくださっている。世界の国々からがれきの中で生き埋めになった人たちを救うためにやってきた犬までいる。在日外国人の方々も大きな力を与えてくださっている。
 水も薬もないけれどもうこれ以上死なせてはならないと、家を失いながら診察しつづけてくださっている医者・看護婦さん。「この地域で生まれ、ここで育っている。この地域に恩返ししなければ」と「お金なんかいらん」といって骨折した人を治療して外科医。地域が一つとなって避難されている人たちを温かい豚汁を提供してくださる。がれきの中で店を開き明るい笑顔で「また一からの出直しや」と明るい笑顔を振りまいている八百屋さん。
「人に頼ってばかりではだめだ、自ら立ち上がり、神戸市民が力を 合わせ、もう一度あの美しい素晴らしい神戸の町をみんなで築き 上げて」と、この大震災で命を奪われた5250名の方々が叫んでいる。
 あちこちで「がんばろうね」とお互いに語りかけている。元町商店街には「我が街神戸の復興に、みんなでがんばろう」と横断幕が掲げられている。自分の町だから、がんばれ神戸。涙をこらえて、がれきの中から立ち上がれ神戸。

 1月31日、子供たちが笑顔でやってきた。震災によって自分の住む家が壊された子供たちがやってきた。唐櫃の子供は彼等をあたたかく迎え入れてくれた。
 がんばれ神戸。神戸の未来を築く子供たちよ。
 厳しい寒さの中、もう白梅がつぼみをふくらまさせている。春はもうすぐだ。

          編 集 後 記
 起こり得ないと思っていることが起こった。震度6とか7とかいう。運動場で避難生活をされている方も多い。頑張れ神戸。みんなで力を合わせ美しい神戸を復興させよう。
 この世紀のできごとを記録したいものです。3月号で今年度のやまびこが終わります。是非、多数阪神大震災に対することやその他の原稿をお待ちしています。2月末までによろしく。(鎌野)
1995年2月7日発行
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