復興の槌(つち)音高くー甦れ、美(うる)わしの神戸ー

  −随想 21−
                   
 「我が愛する神戸のまちが、壊滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐという、激しい地震が、三つの災厄のなかでも最も衝撃的であった。
 私たちは、ほとんど茫然自失のなかにいる。
 それでも、人びとは働いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。
 亡びかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに答えようとしている。地の底から声をふりしぼって、答えようとしている。水害でも戦災でも、私たちはその声をきいた。50年以上も前の声だ。いまきこえるのは、いまの轟音である。耳を挿うばかりの声だ。
 それに耳を傾けよう。そしてその声に和して、再建の誓いを胸から胸へ伝えよう。
 地震の五日前に、私は五ケ月の入院生活を終えたばかりであった。だから、地底の声がはっきりきこえたのであろう。
 神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくり流れおりる美わしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。」
 上記は、1月25日の神戸新聞の一面に記載された、神戸の作家陳 舜臣氏の「神戸よ」の文章である。
 神戸を愛して止まない陳氏の、私たちに訴える思いが心に伝わる。
 あの日はいつだったのであろう。遠い昔のような気もするし、つい昨日のような気もする。
 しかし、事実、死者5476人、負傷2万7000人、被災は26万6000世帯を越え、今もなお避難者10万人を数える。
 それだけではない。日本一の神戸の港は、全くその機能を果たし得ない。東日本と西日本を結ぶ大動脈は断絶状態。道路も、新幹線もそして全ての交通機関も。
 神戸の中心街は、相変わらずがれきの山、粉塵の中。新車、外車の自家用車が走りまわっていた道路は、がれきを山積みにしたトラック、トラック、トラック。
 今だ完全に回復しないガス、水道。
 子らが喜々として戯れる運動場、若い二人が愛を語る公園は、青や赤、かき色のテントが所狭しと立ち並ぶ。
 しかし、そのような中、震災ルックに身を包んだ人は動く。町へ町へ町へ。工場へ工場へ工場へ。
 あの日は、夢でなかった。炎に包まれた町、家、そして人。水が出ないホースを持つ消防士のあの苦しそうな顔。がれきの山をかきわけ生き埋めになった子を必死に救出する母。余震に怯える子ら。 夢であれ、夢であれと願うが……………。
 こんな大災害が地の底から襲ってこようとは誰も考えていなかった。

 子供の頃、戦争があった。空襲、爆撃が続いた。1945年3月17日神戸大空襲で死者2598人、負傷8500人、罹災23万6000人、そして6月5日の空襲では死者3454人、負傷6094人、罹災21万3000人を数えた。
 戦後、私が訪れた神戸の町は焼け野原であった。湊川公園から市内一帯が見渡せた。そして、がれきの山に赤さびたトタン屋根のバラックがボツンボツンと。そして、進駐軍のカマボコ型の兵舎が立ち並んでいた。
 そのような中から、神戸駅三ノ宮駅兵庫駅が復興した。ヨーロッパの駅舎をモデルにしたといわれる、阪急三宮駅が復興した。大学生の時や独身時代に何度も足を運んだ阪急会館やその回りの映画館。妻と一緒に初めて映画を見たのはそこだった。富士山の壁画で有名な神戸新聞会館が建った。湊川公園の側にあった神戸市役所が、新築され三ノ宮に移った。大丸やそごうが賑わった。演劇や音楽で楽しんだ国際会館が完成した。
 神戸の町は日一日と、世界に誇れる美しい町、豊かな町へと再興していった。私たちの父や母や多くの方々は、飢えを耐え、楽しみを求めず、美しい町を夢見て汗水を流した。未来に生きる私たちのために。
 ポートピアで神戸の町が賑わった。異人館が脚光を浴びた。
 この町が、あの日のたった20秒足らずの激震で崩れ去ってしまった。思い出がいっぱい詰まっていた建造物が崩壊してしまった。
 あの日から1か月たった2月17日正午、私たちは、かけがいのない生命を失われた5400名余りの冥福を祈るとともに、神戸復興の決意を表すために、1分間の黙祷をした。

 神戸市民は、昭和13年の大水害も昭和20年の空襲にも負けなかった。三度、神戸の町々はがれきと化した。しかし、神戸市民は三度立ち上がろうとしている。
 44万平方メートル焼け野原となった長田の町から、大きな建物が全壊していった神戸の中心街から、神戸市内で一番多く死者を出した東灘の住宅地から、復興の槌音が高く聞こえてきた。
 「フェニックス神戸」「よみがえれKOBE!」「がんばろうや!WE LOVE KOBE」「がんばれ神戸っ子」「負けてたまるか がんばろう神戸」「神戸には空がある」「GOOD DAY WITH YOU ちからを一つに 未来へ」「あの街をみんなの力でとり戻そう」「新たな一歩のために」「希望のあすに向かって」「目指せ!菅原市場の復興を」「我が街神戸の復興に、みんなで頑張ろう」
 これらの言葉が、町々に満ちあふれている。言葉だけでない、多くの人々の命が満ちあふれている。
 長田でも東灘でも、いやもっと多くの写真館の主人が、成人式の日に撮した写真の主を探し求め、届けている。残された写真がこれ一枚だけになった方も、形見になった方もおられる。
 多くの若者が、ボランティアで日夜を問わず動いている。自らがれきを片付け、テントの中で、崩壊寸前の店先で日用品を、食料品を売る町の人がいる。朝早くから夜遅くまでがれきを片付ける人々、寝食を忘れ、ライフラインの復旧に力を注ぐ人々、自らが被災者であるのにもかかわらずお互いの安否を尋ね会う人々がいる。
 グリーンスタディアム神戸の外野の芝生を刈り「ガンバレ神戸」と書かれた。神戸市民球団オリックスブルーウェーブは市民に希望を与えるために、優勝を目指し練習に汗を流している。
 2月21日選抜野球大会に兵庫県から3校が選ばれた。「この神戸・阪神の復興のために頑張ります」と練習も十分にできなかった選手たちは涙を出して決意を述べた。
 ホテルオークラに幅20m、長さ60mの「ファイト」の文字が21日から点灯された。
 同じ日、児童6人が犠牲となった会下山小学校が避難所となっていない理科室や音楽室、近くの児童館を利用して授業を再開した。子供たちは遺影に黙祷を捧げ、友達の分も頑張る決意をした。水木小学校は二部制で、そして北野小学校は近くの児童館や隣の学校を借りて授業を再開した。これで神戸市のすべての小学校が再開された。神戸市の教育界にはまだまだ解決しなければならない課題が多くある。しかし、まずその第一歩が踏み出された。
 2月27日、簡易給食であるが、40日ぶりに再開した。3月1日より午後の授業も一部再開した。でも、まだ、一日2時間しか授業ができない学校もある。分散して学習を進めていかなければならない学校も多い。給食もまだ再開が難しい学校もある。避難所での教師の負担が大きい学校もある。
 それらの学校に本校をはじめ、被害の少なかった学校の教師たちは午後から支援の手を休めない。神戸市のすべての子供たちが私たちの教え子である思いをもって、今日も出かけていく。
 3月9日、神戸の教育再生緊急提案会議の初会合が開かれた。これからの神戸の教育をどうしていくか。大きなテーマであるが、神戸市の教師たちすべてが神戸の未来を築く子供たちのために、知恵を出し合い、力を出し合い、励まし合って歩もうとしている。
 海外から、暖かい励ましが届く。2月8日ウィ−ン少年合唱団は市内のホテルで、阪神・淡路大震災の被害のあった子供たちのために、シュトラウスシューベルトの名曲を響かせた。
 インドの詩人ラマサミ.デバライさんが復興への祈り込め、英文の詩が送られてきた。(訳 池田 一義 大阪大名誉教授)

   地震は多大の惨害を
   あなたがたにもたらしたり
   われらの胸は激しく痛む

   日夜われらは神に祈る
   かかること二度と起こらざれと
   苦難にあへぐあなたがたの
   ただ中に神が御足を留め
   あなたがたを癒(いや)したまひ
   希望を与へたまはんことを

   あなたがた日本国民に
   神の御手より鉄の意志を
   親しく授けたまはんことを

   神があなたがたの生命力を
   復興せしめたまはんことを
   あなたがたの国「仏の国」に
   とはに自然の災害なき
   とこしへの平和おとづれんことを
        (2月23日  朝日新聞夕刊より)
 アメリカの子供たちからも手紙や絵が次々と寄せられている。震災を経験をした子供たちにとって海を越えて届いたメッセージは、大きな心の支えとなり、これからの神戸を築く力となっていくにちがいない。

 名木田恵子さん(国語6年上赤い実はじけたの作者)は、次の文を子供たちに寄せた。

 子どもたちに

  テレビの画面では
  あなたたちが 笑ってさわいでいました
  インタビューにVサインをした あなた
  クスクス笑いながら
  毛布をかぶってしまった あなた
  瞬間 私の眼の奥に光がささりました
  なんと
  あなたたち子どもは 光り輝くことか!

  私には みえるようです
  いつか 何十年か後
  新しい町に立つあなたたちが
  “歴史的瞬間”にたちあったのを
  ほこらしげに 子どもたちに話す姿が
  「あのときはたいへんだったけど みんなで力をあわせて
 ほら まえよりもっと立派な町になったよ」と

先週、私は焼きつくされた長田の町を歩いた。がれきの中のびんに水仙の花が生けてあった。私はそこに立ち止まり、静かに眼を閉じた。ゴウゴウと燃えるあの炎が眼に焼き付いた。しかし、その瞬間、にこやかな子供たちの笑顔が浮かんだ。
 そうだ。私が、今することは、この子供たちに生き抜く力を与えることである。このような逆境の中にあっても、大きな希望をもちつづけ歩ませることである。
 子供たちは、きっと、この神戸を美わしい町によみがえらせてくれるにちがいない。
 焼けたサツキに、もう新しい芽をつけていた。春はもうそこまできている。
1995年3月13日





































































































































































































































 先週、私は焼きつくされた長田の町を歩いた。がれきの中のびんに水仙の花が生けてあった。私はそこに立ち止まり、静かに眼を閉じた。ゴウゴウと燃えるあの炎が眼に焼き付いた。しかし、その瞬間、にこやかな子供たちの笑顔が浮かんだ。
 そうだ。私が、今することは、この子供たちに生き抜く力を与えることである。このような逆境の中にあっても、大きな希望をもちつづけ歩ませることである。
 子供たちは、きっと、この神戸を美わしい町によみがえらせてくれるにちがいない。
 焼けたサツキに、もう新しい芽をつけていた。春はもうそこまできている。 1995年2月13日