父の涙

私を支えてくれた人
随想 22
校長 鎌野健一

“やまびこ”21号の編集も終りに近付いたある明け方、私は何年か振りに父の夢をみた。
父は、静かに口を開き「よかった、よかった、よかった」と言ってくれた。内容は何も覚えていないが、この言葉だけは、今でも耳から離れない。
そのせいか、父のことについて何か書きたい衝動に駆けられた。普段と異なる編集になるが、お許しをいただきたい。

父は、激動の昭和の時代が終り、平成の時代に入った平成元年(1989年)2月25日夜、交通事故により、あっという間に88才の生涯を閉じた。
父は明治34年(1901年)2月、静岡県御殿場の地で誕生した。富士山が眼の前に見える風光明媚な所で幼き日を過ごした。長じて、沼津の酒屋で働いていたが、大正12年9月1日あの関東大震災に出会った。
父は、全ての財産、多くの命が失われていく様子を目の前にし、神を信じる決心をしたという。その時の様子を子供の頃、私たちによく話してくれていた。その時のに火事の凄さに、驚きの声をあげていたのを思い出す。その時の話と同じ状況を経験するとは、思いもよらなかった。
昭和の初め、父は私の生れ故郷、兵庫県柏原の地にキリスト教の伝道をするために来た。そして、昭和の64年間、柏原の地でキリストの教えを宣べ伝えた。
第二次世界大戦の頃は、とても厳しい時代であった。キリスト教の牧師であるというだけで、何度も警察に呼び出された。伝道の全くできない時代であった。しかし、家族をはじめ、多くのクリスチャンは日々、聖書を読み、讃美をささげ、祈り、信仰を守り通した。 父に対しての思い出はいろいろあるが、今でも忘れることのできない思い出がある。それは、忘れられないだけでなく、今の私の生き方に大きな影響を与えたものである。
戦争も厳しさを増してきた、小学校4年生の時であった。
その頃の私は、家ではとても“ごんた”な子であった。父や母の言うことは聞かず、姉や弟たちをいじめ、妹の世話を言いつかっておりながら、負い紐を妹に結び付け、片方を柱に結び付けて、私は外に遊びに行ってしまうような存在であった。ある時、いつものように悪さをして、母と叔母にひどく叱られ地下室に入れられた。ところが、私は床下をはい回り、逃げ道を探し、外に出て遊んでいた。
夕方、家に帰ると、父は私をすぐ側にあった中学校のグランドに連れていった。そして、砂場の枠に私を座らせた。
父は何も言わなかった。私もただ黙っているだけで、謝ろうともしなかった。その時、私が正直に父に話し、謝ればことはすんでいたのかも知れない。どれほど時間が経っていたであろう。辺りが薄暗くなりかけていた。ふと、私は父の顔を見た。父の目からはいっぱい涙がこぼれていた。
その涙を見た時、今までの私の岩のような心は、いっぺんに崩れてしまい、泣いて父に謝った。父は私を心から許してくれた。そして、神に赦しの祈りをしてくれた。
このことは、この年になっても私の心に大きく残っている。

父は、事故に会ったその日、90才を越した一人のおばあさんを訪問していた。その帰りに交通事故に会った。母の形見の聖書を持っていたため、そこに車が当たり、怪我は額の擦り傷程度で他は傷を負わなかった。ところが、内出血が多量であったため、5時間後に天に召された。
前夜式の時、私は挨拶でこの話をした。そして車の運転をされていた方に「きっと父は、私を黙って許してくれたように、きっとゆるしていることでしょう。」と語りかけた。
父を天に送ってから、6年も経ってしまった。母も11年前に天に送ったが、神戸を襲った世紀の大地震にも守られ、ここまで生かされていることに対して、父は「よかった、よかった、よかった」と私に語りかけたにちがいない。
春になれば、ゆっくりと時間をとり、父と母の生れ故郷を訪れ、今このように生かされている恵みを感謝したいと願っている。
もう、故郷の地にも、ふきのとうが大きく芽をふくらませていることだろう。

編集後記
阪神・淡路大地震のため、この3学期もあたふたと過ぎてしまった。避難所になっていた学校も、2月の終りに閉鎖になり、唐櫃の地は少し落ち着いてきたようである。しかし、未だ、その傷跡は大きく残っている。神戸の中心部は大変な状況にある。しかし、多くの方々に励まされ、神戸市全体が明るさを増してきたようである。これからも、大変な日々は続くであろう。でも、朝の来ない夜はない。共に励まし合い、力を出し合い、思いを一つにして神戸復興のために頑張っていきたいものである。
平成6年度の最後の号は、多くの方々の原稿をいただき、素晴らしいものとなりました。本当にありがとうございました。ご投稿いただいた方々に心より感謝いたします。
これまでの「やまびこ」を読み返すと、いろいろな思いが私の心をよぎります。皆様の暖かい励ましがあったからこそ、ここまで続けることができました。本当にありがとうございました。
今年の冬は暖かく、唐櫃の厳しい寒さはなかったようです。寂しい気もしますが、未だ、運動場で、公園でテントでの避難生活をしてられる方々のことを思うと、暖かい冬で本当によかったなあと思います。
唐櫃の希望に満ちた春は、もうすぐそばまで来ています。「春が来た 春が来た」と歌いたくなる日も近いことでしょう。被災に会われた方々と一緒に、心から「春が来た 春が来た」と歌える日が一日でも早くくるように祈りたいものです。
(鎌野)神戸市立唐櫃小学校 「校長室の窓から やまびこ」1995年3月号より