母の手

随想2
校長 鎌野健一

今年も母の日がきた。
私の母が天に召されて10年目を迎える。母の日がくるたびに、なつかしさがこみあげてくる。そして、いろいろな思い出が浮かんでくる。幼い日の一日一日が瞼ににじむ。

母は、明治の終りに、新潟の貧しい寒村で生まれた。小学校を終え、岐阜の織物工場で働いていた時に、キリストの教えにふれクリスチャンになった。昭和のはじめ、宣教師とともに丹波の地に来たそうだ。その地で父と共にキリスト教の伝道に、激動の昭和の時代を送った。
母が、天に召される前夜、私は二人っきりで病室で過ごした。母の意識はもうろうとしていたが、時々眼を開け、私に何か呼びかけていた。私は、母の手をしっかりと握り、母の呼びかけに応じた。ざらざらした母の手にふれながら、幼い日々のことが瞼に浮かんできた。そして、「お母さんありがとう」と何度もささやいた。
私が小学生の頃は、第二次世界大戦の真っただ中だった。母は、六人の子供に食事を食べさせるため、朝早くから仕事をしていた。鶏や山羊を飼って私たちに栄養をつけてくれた。少しの空き地を開墾して畑を作り、新鮮な野菜を食べさせてくれた。もちろん鶏や山羊の世話や畑づくりは私たち子供の仕事でもあった。いなごやたにし、そして小鮒は大切な日々の蛋白源であった。学校から帰ればすぐに母と山に薪を拾いにいった。風呂を沸かしたり、ご飯を炊いたりするためであった。その時の母の手は傷だらけであった。
六人の子供の洗濯も大変だった。二人の姉もよく手伝っていたが、近くの小川に行き、洗濯板でごしごしと汚れた物を洗ってくれていた。夜になると、燈火管制の下、手元に電燈を引き寄せ破れ物を繕ってくれていた。その時の母の手は、あかぎれで血が滲んでいた。 私が小学校2年生の時、高熱が続いたため、2週間ほど学校を休んだ。母が世話をしてくれるのは夜中だけだった。高熱を和らげるため、一晩中タオルで額を冷やしてくれた。三晩ほど続いた。母はほとんど眠らず私を看病してくれた。その時の母の手はやさしさに満ちていた。
高等学校を卒業して、大学に入学するために私は丹波の地を去り、神戸に下宿することになった。駅にまで見送りにきてくれた母は「何時も神様にお祈りをしているよ。健一も祈るんだよ。」とひとこと言ってくれた。駅から何時までも母は手をふって、私を送ってくれた。その時の母の手は、私の涙でにじんでぼんやりしていた。
召天前夜、私の掌の中にあった母の手のぬくもり、今も私の中に残っている。その時その時の母の手は、私に本当の優しさを教えてくれた。今の私を支える大きな愛となって私の心に残っている。
いつの日か、私は母の生まれ故郷を訪れ、母の過ごした地で一夜を過ごしたい。そして、祖父母の墓前にひざまずき、母に命を与えてくれたことを感謝したい。
今年も白いカ−ネ−ションが輝いている。あの母の手のように。[燈火管制  戦争中、家の明りが外にもれないように、電灯の周 りに黒い布などを巻き明かりを遮光すること。]

編集後記
春たけなわ、この季節の唐櫃は美しさがいっぱいです。この唐櫃の自然を生かした教育、私たちに与えられた課題です。
「心そこにあれば見えるものが見えてくる」豊かな自然を見つめることのできる目を大切にしていきたいものです。
(鎌野)神戸市立唐櫃小学校「校長室の窓から やまびこ」1993年5月号より