父の涙

 小体連のサッカーの試合が始まった。
 冬休みも練習を続け、毎日暗くなるまで練習が続いた。先生も大変だが、子供たちも半袖半ズボンで北風に立ち向かっている。子供たちの意気を感じる。
 なかなかの好ゲームを展開している。
 六年生チーム強豪湊川多聞チームと戦った。後十五秒で引き分けの時に一点入れられ惜敗。もうしばらく、寒さの中、試合が続く。六年生の子供たち、小学校生活最後のこの学期、有意義に過ごしてくれることだろう。
 十六日、十七日と今年度五回目の授業参観があった。短い時間だったが子供たちの学習の様子を見た。
 一年生の子供たち、授業に集中し自分の考えを発表している姿、歩き回り授業に集中できなかった十か月前の姿と比べて雲泥の差。当たり前といえばそれまでだが、子供たちの成長の素晴らしさに、しばらくそこに佇む。お父さん、お母さんの表情も柔らかい。
 三月に持たれる最後の授業参観、なお大きく成長するであろう姿に期待を込めたい。 
 六年前に五年生を担任した。三学期の最後の授業参観に次の詩を学習した。
     靴   下
        室 生 犀 星
  毛糸にて編める靴下をもはかせ
  好めるおもちゃをも入れ
  あみがさ、わらぢのたぐいをもをさめ
  石をもてひつぎを打ち
  かくてのにででゆかしめぬ

  おのれ父たるゆゑに
  野辺の送りをすべきものにあらずと
  われひとり留まり
  庭などながめるほどに
  耐えがたくなり
  煙草を噛みしめ泣きけり

 犀星は三十三才のとき、長男豹太郎を満一才一か月で失った。詩人としても小説家としても順調な出発をした犀星は、この愛児の死で非常な衝撃を受けたという。
 男親は葬送に参加しない、という風習は今日ではすたれているようだが、冷たくなった愛児に靴下をはかせ、柩に玩具を入れてやるこの親の気持ちを子供たちに分からせたかった。そして、この頃小学生中学生の自殺があいついでいたこともあって、どんな困難なことがあったとしても生きなければならないことを教えたかった。
 この日の日記にK子は次のことを書いてきた。
「今日は、授業参観でした。室生犀星さんが書いた靴下という詩を勉強しました。
 私は、この犀星さんは、とてもつらい思いをしているんだなと思いました。まだ、一才しかならない子供を失って、今でも、思い出して悲しい気分で涙が出てくるのではないでしょうか。自分の死んでしまった子供に、最後にできることを心をこめて、この靴下をはかせてあげたのだろう。
 父親は、つらいことばかりしなくてはいけない。石で柩を打ったり、野辺の送りさえもできない。最後まで子供にあうこともできずに、家で、子供が楽しそうに遊んでいたことを思いだし、悲しみとつらさをこらえようにもこらえられない気持ちは、とてもたまらない。
 私は、きっと、この作品は子供のことを思いだして、涙をながしながら書いたのだろうと思った。
 自分よりも先に死んでしまった子供に、何もしてやれないつらさを、毛糸の靴下にたくし、語りかけながらはかしたのだろう。まだよちよちち歩きの赤ちゃんなのに、三途の川を渡れるのかな。お父さんの気持ちがいっぱいつまった靴下をはいて渡ったのだから、絶対に天国に行けたのだろう。
 私のお父さんもお母さんも長生きをしてほしい。でも、私は決してお父さんやお母さんよりも早く死んではならないとつくづく思った。」
 私は、三十年余り子供たちに日記を書かせてきた。その中で、印象に残っているものは、コピーをしたり、書き写したりして私の手元に残っている。私の指導の不十分さもあって、父親についてのものは少ない。死んだ父親を思い出して書いた日記や、自分が未熟児で生まれたとき、父親が病院を探し回ったときのことを書いた記録ぐらいである。
 それに対して、母親についての日記は多い。男親として、少し寂しい思いであるが、しかたがないのかも知れない。
 しかしながら、この詩の授業をしたとき、作者の子供に対する気持ちを理解していきながら、父親の自分に対する気持ちをいろいろと話してくれた。母親については日記にはいろいろと書きやすい。しかし、子供の心の奥には、父親がどっしりと居すわっているような気がした。
 二月に入ると、三年前交通事故であっという間に天に召された父を思い出す。
 父は、激動の昭和の時代六十四年間を、丹波の地でキリスト教の宣教に情熱を燃やし尽くし、八十八才の生涯を閉じた。
 その父についていろいろと思い出があるが、その一つに父に叱られたことがある。
 まだ、小学四年生の時、悪いことをしたために、母にひどく叱られ、地下室に入れられた。しかし、私は、謝りもせず、そこから縁の下をもぐり逃げ出した。
 夕方、家に帰ると、父は、近くにあった中学校のグランドに私を連れていった。砂場の枠に座り、父は私に謝るようにいろいろと諭した。しかし、私は、頑として謝ろうともせず、黙っていた。しばらく沈黙の時が続いたが、ふと、私は父の顔を見た。父の目からはいっぱい涙がこぼれていた。
 その涙を見た時、今までの私の岩のような心は、いっぺんに崩れてしまい、泣いて父に謝った。
 このことは、昨日のように私の心の中に甦ってくる。
 母は、私に豊かな感性を育ててくれた。父は、私に温かい人格を育ててくれた。
 二月に入ると故郷に帰り、父と母の墓前にひざまずき、感謝を捧げるとともに、共に過ごした山野にしばらく佇みたい。
 ハーバーランドから見る六甲の山々は、白く煙り姿を見せない。厳しい寒さもあと少し。春3月がやってくる。
 真っ赤な頬をした一年生が、私に語りかけてくれた。
「先生、私の弟こんど一年生になるんよ。私、手つないでつれてきてやるねん。」
彼女の眼は輝き、生き生きとしていた。
               (けやき 平成四年二月号)