いのちの炎を燃やす  病に勝って生きる子ら

 湾岸戦争で幕を開け、六十九年間続いたソビエト連邦の消滅で激動の一年間が終わった。そして、一九九二年を迎えた。
 いよいよ平成四年から学校五日制が導入されそうである。その第一段階として、幼稚園、小、中、高校とも二学期から月一回、土曜日が休みになる見通しである。
 中学生に「いま一番したいこと」を尋ねると、返ってくる答えで圧倒的に多いのは「寝たい」なんだそうである。学校の部活動もこなさなければならないし、塾にも通わなければならない。よほど中学生は疲れているのだろう。小学生についての調査結果はないが、同じような結果があらわれることだろう。
 そんな疲れた顔の子供たちに、学校五日制が恵みの改革となるのか、それとも塾通いがさらに過熱することになるのか。
 「子供の学力低下が心配」「家では十分教育ができない」と、父母からの反対の声も聞こえてくる。戦後の6・3制確立に次ぐといわれる大きな教育改革が、本当に子供の「ゆとり」につながるかどうか。今年の大きな課題である。
 一年生のI君、九カ月の入院を終えて三学期から再入学してくる。親元から離れてのの生活、さぞ寂しかったであろう。しかし、彼はそれに耐えて元気で帰ってきた。
 私の教えた子に、H君がいた。彼は、十二年間の間に十六回も入院した。そして何回か手術をした。その彼が次のような作文を書いてくれた。
「ぼくは、いろいろな病気を持っています。アセントン血しょう、ヒルシュスプルング 病、貧血などです。
 また、口内炎、ポリープ、扁桃腺炎そして先天性耳ろう孔などで手術をしました。
 そのため、父や母だけでなく、幼稚園の先生、今までの担任の先生に心配をかけました。友達からは千羽づるや手紙で励まされました。病院の先生、看護婦さんたちにも心 配ばかりかけていました。しかし、いつもぼくを応援してくれています。そのことを思 うと、ますますがんばらなければいけないと思います。
 今、ぼくは甲南病院で、眼科と外科そして耳鼻科にかかっています。目は緑内障です。毎日一回が眼圧を下げる薬をさしています。その薬を忘れると、眼圧が上がり、目が見えなくなります。だから本当はとってもこわいのです。
 その他の病気もとてもこわい病気だそうです。でも、お父さんもお母さんも、いつも本当のことを話してくれていますから、何も心配はしていません。
 ぼくのお母さんは七回も手術をしました。ですから、いつもお母さんとは、病気に負けずにがんばって生きていこうと話し合っています。
 本当のことを言うと、お母さんと二人で泣いたことも何回かありました。でも、泣いたってどうすることもできません。強く生きていくより他に道はありません。だから、二人でそう約束をしています。
 ぼくには、三人の妹や弟がいました。三人とも、赤ちゃんのときに天国にいってしまいました。ぼくは、その子の分も頑張って生きていくつもりです。お母さんやお父さんにとっては、ぼくは大事な存在です。四人のうちのたった一人だけです。だから、早く元気になって、四人分親孝行してあげたいです。
 小学校生活もあと半年です。六年生はまだ入院しないで頑張っています。でも、けがはたくさんしました。手の骨が欠けたり、自転車でこけて傷をしたり、その傷が化のうしたり、腕をガラスで切って三針ぬったり、いつも病院の世話ばかりなっています。お母さんに心配をかけてはいけないとは思っているのですが、心配ばかりかけています。
 ぼくには、大きな目標があります。それは、大好きな野球を思いきりし、甲子園で優勝することです。このため、今、野球の名門校に入学するため一生けん命に勉強しています。
 この夢をかなえるためにも、病気に負けるわけにはいきません。必ず、この夢を実現するために、病気に打ち勝ち生きていきていきます。」
 そのH君は、第一の関門を突破し、第二の関門突破に向けて練習に励んでいる。病気で倒れることも何度かあった。しかし、元気である限り、夢を実現するするために、いのちの炎を燃やし続けている。彼の健闘を心から祈らざるをえない。
 昨年の六月、NHKテレビドキュメンタリー『光あるうちに〜三浦綾子・その日々』を見た。かつて肺結核で十三年間、死の淵をさまよった三浦綾子女史が、今は癌と闘っておられる。しかし、その歩みは平安と喜びの中にあり、ご主人の光世氏の支えのもと、最後の長編小説『銃口』を執筆されている姿を見た。
 その女史の最新のエッセイ集『心のある家』(講談社)の中に次のような文章があった。
「昨年(一九八八年)、私は群馬県に住む星野富弘氏をその自宅に訪ねた。彼は二十年近くも下半身麻痺という状態の、ベット生活を強いられている……中略……その星野氏 から、私は以前に色紙を頂いたことがあった。口で描かれた美しい花の傍らに、
 『わたしが苦しみに遭ったことはよいことであった』
という聖書の言葉が添えられてあった。私はどきりとした。今尚苦しみの只中にある人が、こんな聖句を書いて下さるとは。昨年お会いした時、私はそのことを氏に言った。
 星野氏は、
『病気とか怪我というものに、最初から不幸という肩書はついていないのですね。それをつけるのは、先ず人々の先入観、それから、その人のそれまでの生き方の問題というか……』
 と淡々と話された。星野氏の目は澄み、そして輝いていた。」
 三浦女史にしても星野氏にしても、自分に与えられた癌、下半身麻痺という状態をありのまま受け取り、いのちの炎を燃やし続けられている。
 H君にしてもそうである。彼を担任したとき、私のクラスに彼ほど明るい者はいなかった。彼ほど元気な者はいなかった。自分に与えられた病を素直に受け取り、大きな希望に燃えて日々歩み続けていた。
 年末の二十八日、神戸新聞文芸欄に平成三年度詩の部年間最優秀作品が発表された。
      「恩 寵」    河 野 基 樹
    なぜ生きるのか
    生きる目的は何かと
    悩んだときもあった
    生きることに意味があり
    生かされているのだと
    思うようになった
    癌の手術を
    受けてから
 一月八日、真っ赤な頬をした子供たちが校門に飛び込んでくるだろう。平成四年のスタートだ。      (けやき 平成四年一月号)