子供を信じるということ(二)待つということ、信頼するということ

 入学して二か月、一年生の子供たちは学校が楽しくてたまらないといった調子である。朝早く教室に入る。学習用具をしまうと、運動場に飛び出す。真っ先に駆けつけるところは、湊ランド。
 入学後に見せたあのおどおどした様子はもうない。子供たちは日一日と成長してきている。
 五月の初めまで、六年生に教室の掃除をしてもらっていたが、今では、自分たちで掃除をする。教師ひとりがする方が早い感じであるが、子供ととも汗をながされている。きっと、子供だけの力でやり遂げる時がくることを信じて。
 友達どうしのけんかも多くなった。「ぼくをたたいたんや」「ちがう、さきにたたたいたから、ぼくもやったんや」子供にはそれぞれ言い分がある。納得させて一応おさまったが、また、繰り返す。毎日この繰り返しある。このことを通して子供は成長する。
 見えないところで、大きく伸びている子供の姿をみる。 
 私が五年生を担任していたとき、K子が次の日記を書いてきてくれた。
「今日の一時間目は、体育館で体育をしました。先週と同じで長縄跳びでした。NさんとHさんが縄をもって回してくれました。先週の最高十七回を抜かしました。二十回、 三十回と調子よく跳べました。この調子ならば五十回は跳べそうだなと思いました。ところが、三十一回目で誰かがひっかかってしまいました。振り向くと。M子さんでした。私はそのとき『あああ、なんで引っかかったの。また、M子さんだわ、あの人いつもや。みんなが頑張っていたのにいややね』と思いました。
 ところが、後から、私はなんであんなひどいことを思ってしまったんだろう。このことは、心の中でもH子さんをいじめているのと同じだと気付きました。そして、体育の時間が終わるまで、心の中で『H子さんごめんなさい』と言い続けていました。
 先生、心の中でもH子さんをいじめてしまってごめんなさい。」
 また、同じ五年生のA子は次の日記を書いてくれた。
「今日おこられた。勉強のことでだ。『今のままの勉強の様子では、中学校になって困るのは自分よ』とお母さんの言葉がとびちった。
 自分では『しよう』と思うのに、もう一人の私がテレビの音を聞いて耳を向こうにひっぱる。『先生、たすけてえー』と言いたい気持ちでいっぱいになる。
 自分でやる気があるのに、もう一人の私のせいで、ほんとうの私が落ちこんじゃったの。『ほんものの私よ、立ち直れ』と黄金の光が伝えてくれるのに。もう一人の私とけんかになったの。先生、悪が勝って、あつ子はけっきょくほんとうの私を失ってだめになってしまうの。
『先生たすけてえー』」
 子供たちは、常に成長しようと一生懸命の努力し続けている。ほんものの自分は、弱い自分と戦い続けている。
 教師や親は、その子供の心の戦いを知らずに、「また、約束を守らない」と叱り続け、「もう、あんたら知らん」と突き放してしまいやすくなる。
 K子もA子も、私に心の中を見せてくれた。弱い自分、そして、それでは駄目だと戦う自分。このような子供の心を知ると、子供を信頼し、子供とともに歩まなければならないと思う。
 教師や親から信頼されている子供は、その教師や親を信頼し、かつ尊敬する。そうした信頼関係のうえに「教育」は成立する。もし教師や親と子供にそうした信頼関係がなければ、「教育」は成立しない。教師や親がいくら指示・命令しても、叱咤激励しても、子供は「学ぶ意欲」はおこらない。
 子供は、教師・親の生き方を模倣しながら、生きる意味を学び、また自分にふさわしい生き方を身につけていく。
 子供を信じること、それは「待つ」ということであり、「信頼する」ことである。
 先日、六年生のときに担任したA・M子から手紙が届いた。それに次の一文があった。「私は今、クラス委員をしています。クラスをまとめることはとてもむずかしいです。委員の言うことを聞かない人もいます。学校のきまりを守らない人もいます。先生の言われることを守らない子もいます。でも、私はいいクラスになるようにがんばっています。
 私が六年生のとき、先生を困らせたことを思い出します。あのとき、先生はいつも『あなたならきっとできるよ』と言ってくださったことを思い出します。みんなをちゃんとさせることはむずかしいですね。でも、がんばります。」 
 五月末に四日間、一年生と過ごした。とても愛らしかった。一日の学習が終り「さようなら」をした後、一人一人と握手をして別れた。一年生の子の眼は光っていた。
「先生、また来てね。かしこうしとるからね。」
行儀が悪く叱った子が言ってくれた。      (けやき 平成三年六月号)