新しいカレンダーに思う生きる美しさとは

 一九九一年一月一日朝、いつものように朝日が昇る。昨日と同じ太陽だ。しかし、多くの人々はこの日の出を見るために、朝早く起き、山に登り、初日の出を感動をもって見る。
 新しい日記を買う。来る年こそは最後まで書き上げようという決意をもって買う。そして、ところどころ抜けている一九九〇年の日記を大切に納め、新しい日記に一月一日の思いや、新しい年の決意を書く。
 ある年の三学期の始業式が終わった後、私はクラスの子供たちに
「みなさんの前に、まだ使われていない、真っ白な一冊のノートがあります。このノートにこの一年間の歩みを書き記してください。喜びに満ちるベージもあるでしょう。涙でぐしゃぐしゃになるベージもあるでしょう。腹が立ち、ビリビリに破れるベージもあるでしょう。空白のままのベージもあるでしょう。三百六十五ベージの真っ白なこのノート、どうか最後まで使い切ってください。」
と語った。子供たちは期待に胸をふくらませて眼を輝かせて聞いていた。
 元旦に開く新しいカレンダー、胸のときめく思いがする。新しい年の希望にふるえる。
 新しい年、それは私たちに大きな感動と期待と希望を与えてくれる。
 私は今年も一冊のカレンダーを買った。それは「星野富弘詩画集カレンダー」である。とても素晴らしいので、毎年何人かの親しい方にこのカレンダーを贈っている。そして大変喜ばれている。
 この星野富弘氏は、中学の体育の教師であったが、不慮の事故のため手足の自由を失い、僅かに動く口に筆をくわえて詩画を描き続けている。
 そのカレンダー一枚一枚に、星野富弘氏の口で描かれた花と詩がある。生きるものの悦びが、生きるものの哀しさが、花弁の一枚一枚から立ち昇り、澄みきった心の眼で生命を見つめ、自然をいとおしむ著者のメッセージが、私の心の中で、暖かい愛の蕾がほころんでくる。
 八年前、NHK学校放送「明るい仲間」の番組で、星野富弘さんが障害と闘いつつも詩画に楽しみをみいだして、筆を口にくわえて描いている姿を子供たちは見た。
 子供たちは、番組の主人公宏之と共に、その姿を感動をもって見つめていた。
「口に筆をくわえて、きれいな花の絵を描いている星野さんは、とてもすごいとおもいます。わたしは、ほんとうに自分のあきっぽさがはずかしくなりました」 五年  M子
「体が不自由なのに、痛みを耐えて、動かすことのできる口だけを使い、すばらしい絵を描いている。体が丈夫で幸せにくらしているぼく。だのに、すぐあきてしまい、次ぎか ら次ぎへと自分の好きなように過ごしている。そういう自分が、とてもはずかしい」   五年  T男
「体が不自由な星野さんは、口だけで必死にやっているのに、ぼくはなぜ一回も最後までやりとげないんだ。こんなぼく、自分でも情けない」      五年  H男
 子供たちは、星野さんの姿を自分の姿と重ねてみた。そして、自分の生き方のあいまいさ、弱さを思い知った。
 このごろの子供たちは、感動しないといわれる。しかし、私はそうとは思わない。子供たちは、私たちより物事を素直に見、純粋に受け止めている。ただ、私たちが人間としての美しい生き方を、子供たちに示していないだけではないだろうか。
 子供たちに、生きることの素晴らしさを知らせ、強く生かそうと願うならば、まず、私たち教師が、親が力強い生き方を示さなければならない。
「星野さんは『今は、前にある花しか見ることができなくなった。でも、自分は何もできなくなったのではない。眼が見える。耳で聞ける。字だって口で書ける』と思ったのだろう。私は、星野さんの生き方を見て、心がかわった」
       五年  M子
と、M子はさりげなく書いていた。M子の前には、多くの苦難が待ち受けていた。しかし、彼女は生きる美しさを知った。だから、今も彼女は力強く生き抜いている。
 星野富弘の四季抄が掲載されている雑誌一月号がきた。冬のバラの絵とともに、次ぎの詩が記してあった。
     天気予報が雪と告げる日
     それでもオレンジ色の蕾を用意して
     咲いている一枝のバラ
     ほどほどに生きようと思う
     心を恥じる
 新しい年も一週間過ぎる。子供たちは頬を真っ赤にそめて、登校してくる。この新しい年に大きい期待をこめて。
           (けやき 平成3年1月号)