生きているからしあわせだ 音楽会を通して感じたこと

 空は青く澄みわたり、木々の葉は色づき、美しい日だった。
 体育館から子供たちの歌声が、いろいろな楽器の音色が美しいハーモニーとなって、ハーバーランドひびきわたる。多くの人々に感動を与えた音楽会は終わった。
 朝早くから、校舎内にひびいていた先生のピヤノの音も聞こえなくなった。授業中に、より美しいハーモニーを求めて何度も聞こえていた歌声も聞こえなくなった。放課後遅くまで鳴りひびいていた金管楽器の音も聞こえなくなった。第三回の音楽会は終わった。
 校内音楽会に、盲学校の小学部の皆さんが、音楽劇「森は生きている」を演じてくれた。わずか十一名の一年生から六年生までのお友達だったが、力いっぱい演じてくれた。いろいろな障害を負わせられているにもかかわらず、持てる力を最大限に発揮している姿に感動した。終わった後の子供たちの拍手は、どの学年のときよりも大きく、長かった。
 私は、盲学校の文化祭を参観することができた。小学部の皆さんが四十分余りの演じてくれた、この音楽劇を初めから終わりまで見ることができた。ひとつひとつの美しい歌声に、優しさいっぱいの演技に、目の前がかすむことがたびたびあった。小学部の子供たちのすばらしい努力に、先生がたのご苦労に感動した。
 負わせられた障害を乗り越え、今、与えられている能力を最大限に発揮し、よりすばらしいものを求めている姿を見て、私の足らなさを思い知らされた。
 私が心身障害児学級を担任していたとき、友生養護学校に通うY君(彼はひとりで歩くこと、手を動かすこと、話すことも自由にできないが)と、週に一日、ときには毎日、いっしょに生活をした。その彼が、五年生の秋の終わりに三週間かかって打った、訂正だらけのカナタイプの詩を持ってきてくれた。 
     キミノコトシッテル
   アル ハルノアサ
   ウマレタキミ
   フレテミレバ
   ヤワラカナキミ
   ガッコウカエリニ イツモミテタ ボクダッタ
   アメヤカゼニモマケズニ ガンバッタキミ
   イマイロヅイテ シンデイクキミ
   ヒトニフマレ カゼニフカレテチッテユク
   デモ マタ ハルサクラノサクコロ ウマレテオイデ
   マッテイルカラ
   ヤマモイロヅキ アカクモエサカル
   タイヨウハアカアカトモエサカリ イマアキノオワリ
   イキテイルッテスバラシイナア
   コンドウマレテクルトキ
   ミンナノヨウナ ゲンキナカラダデ ウマレテキタイボク
   ハナシテミタイ
   ウタッテミタイ
   ハシッテミタイ
   イロイロナコトヲシテミタイ
   デモイキテルカラ シアワセダトオモウ
   デモチョピリ
   オカアサンノバカトオモウコトモアル

 彼の訂正だらけの詩を手にしたとき、私は感動で震えた。目がかすんで読めなかった。彼に負わせられた十字架はあまりにも重い。しかし、その十字架を負いつつ「生きているから幸せだと思う」とうたう。
 この三月、前任校で六年生の子供たちに、彼のカナタイプで打った「ソツギョウヲマエニシテ」という作文を教材にして、「生きるとは」の授業をした。授業にいつも集中できないM君、横を向き、腕で頬を支え、居眠りをするような状態だった。しかし、Y君の作文を読みはじめたときから、M君の背筋が伸びてきた。大きな姿勢となり、表情が変わり、目が輝き、九十分の授業を集中して受けた。
 盲学校の一人一人も、Y君も負わせられた十字架は重い。しかし、彼等は、力いっぱい生きている。持てる力を最大限に発揮している。その姿が、美しい。力強い。感動を与える。そして、生きることのすばらしさを教えてくれる。
 教え子から手紙が届いた。真っ赤に色づいた一枚の葉が届いた。
「先生、学校から見える山はきれいですよ。一年生のとき、きれいな落ち葉をいっぱい 集めたね。お店やさんごっこをしたね。楽しかったね。」
と書き添えてあった。
          (けやき 平成2年12月号)