ほんとうの喜びとは

 夏の暑さと、雨の少なさにへこたれ、枯れかけていた中庭の「なつつばき(別名沙羅の木)」、新しく芽出し、緑の葉も付けてきた。
 この木は、昨年の台風で根こそぎ倒れてしまったと聞いた。この夏の暑さと、雨の少なさに、「もうこの木はだめだよ」という声も聞いた。しかし、暑さも和らぎ、秋の声を聞きはじめた頃から小さな芽をのぞかせ、私を安心させてくれた。それと同時に、この木の強さを知った。
 いつの間にか、空は高く、澄みわたり、気持ちのよい季節になっていた。音楽会のシーズンへ入ってきた。
 子供たちは、「力を合わせ、ひびけ心に」をテーマに十一月十八日の音楽会に向けて練習にはげむ。新しい自分を作り出すために、隠された能力を引き出すために、そして、よりすばらしいハーモニーを作り出すために、日々練習に励む。

 私の教え子、竹内君が、音楽会を終えた時に次の文を書いてくれた。
「しんどかった。音楽会が終わったとき、うれしかった。苦しい練習がもうい。でも、なんかさみしい。『毎日の練習もういやだ。やりたくない』と思ったときもあった。『こんなにせんでも、本番でうまくできたらいいんや』と思ったときもあった。
 でも、今はちがう。ぼくたちは毎日きびしい、つらい、苦しい練習をのりこえてきた。そして、心に残る音楽会をすることができた。このうれしさは、きびしい、つらい、苦しい練習をのりこえてきた人じゃないと分らない。
 力いっぱいした音楽会の練習、そして、音楽会はもうかえってこない。なんだかさみしい。もう一度だけやってみたい。
 小学校最後の音楽会、もう終わった。」
 この年の音楽会は、十一月にあった。しかし、運動会が終わった十月の初めに、音楽専科が病気のため倒れてしまった。新しい音楽の先生を迎えての音楽会の練習だった。そのため、子供たちも教師も厳しい毎日だった。
 ある子は、「たった十五分の演奏に、なんでこんだけ練習するんや。こんだけせんでもええのに。しんどいばっかりや」とつぶやいた。
 私は、この子たちに、たった十秒しか走らない百メートル選手の厳しい、長い練習を話した。自分の持てるものを最大限に発揮しようと思えば、苦しい練習こそ大切だ。それをのりこえてこそ、ほんとうの喜びがあることを話した。
 子供たちは、このことがよく分ったのか、文句を言わず黙々と練習に励んだ。そして一か月足らずの練習だったが、音楽会には、合奏「フアランドール」三部合奏「雪の祭」をすばらしく演奏してくれた。
 苦しみを味わい、それを耐え抜いた子供たちの表情は明るかった。満足し切っていた。喜びに満ちていた。
 佐藤さんは、その日の日記に
「『さようなら』を歌っているとき、なみだが眼にたまってきた。私はいっしょうけんめいにこらえていた。」
と、短く音楽会のときの気持ちを書いてくれていた。
 七年たった今でも、演奏し、歌っている子供たちの表情がありありと目に写る音楽会であった。
 今日の子供たちは、ややもすると、苦しいことを避けたがり、楽な方へと進んでいく。しかし、それでは進歩もなければ成長もない。また、ほんとうの喜びがない。苦しさを与え、それをのりこえてこそ、ほんとうの喜びがある。
 体育館から、音楽ホールから、教室から、合唱が、合奏がひびいてくる。何回も何回も同じメロデイーが聞こえてくる。より美しいハーモニーを求めて練習に励む子供たちがいる。
 だれもいない夕方、一年生の教室からコウロギのコーラスが聞こえてきた。ふと、今はだれもいない故郷の家を思い出した。天国に召された父母の声が聞こえた。                  (けやき 平成2年11月号)