ありがとう子供たち わたしの教育とは

 子供たちは無垢だ。特に。私が担当している子たちはそうだ。
 一人の先生に3年間も担当されるということは、仮にどんなに素晴らしい教師であったとしても、子供にとっては煙たいものである。新鮮味がなく、「またか」という言葉が当然出てくる。
 しかしわたしのクラスの子供たちはそうではなかった。喜んで私を迎えいれてくれた。一人一人、進級の喜びをー言葉として表情として表さなくてもー持ちつつ新しい学年をスタートした。
 4月8日、N君は職員室の私の席のところで、笑みを浮かべて待っていてくれた。Mi君は「先生、おはようございます」という声で私を迎えてくれた。K君は「4年生になっても、仲よし学級に来る」と言って私に寄りそってくれたM君もM子さんも私が担任するのが当然のように私を待っていてくれた。              55・ 4・ 8

 この子たちに比べて、私は無垢ではなかった。この四月には、「障害児学級を担任する精神的、肉体的苦痛から早く逃れたい。私はもう疲れ切った。もう2年間も担任したのだ」との思いが私の中にあった。
 4月8日、彼等との出会い、彼等の美しさに、私自身が恥ずかしかった。まばゆいばかりの美しさ。それに比べて、にごりきった私自身。彼等に合わす顔がなかった。
 思い返せば、くじけてしまいそうな日もなかったわけではない。頭のてっぺんから足の先まで、痛みの走る日も続いた。
 しかし、この2年半は、今まで味わったことのない充実しきった時だった。私の今までの教育をもう一度見直し、新しい観点(人間としての美しさを追い求める)に立って、80年代に生きる教育を真剣に考えることができた。
 子供たち一人一人を見る時に、彼等は、負わせられた十字架に耐え、一歩一歩着実に歩み続けている。この人間的美しさを私に示してくれた。
 ありがとう、子供たち。  

 障害児学級を担任するということは、実に素晴らしいことである。これほど報われることの多い仕事はない。苦しみは大きいかも知れない。しかし、その報いはより大きい。障害を持った子たちと共に歩むこと、これは私にとって、人間完成への道である。
 飛び立て、子供たちよ。そして、私に歩む道、生きる道を示してくれ。