力の限り 随想17

 鎌野健一

 夜来の雨も止み、すっきりとした秋空が広がっていた。
 朝の4時頃に、たたきつけるような雨が降ってきた。夜中の雨は、きっと朝にはには止むだろうという気持ちでいたが、早朝の雨には驚かされた。しかし、その雨も5時過ぎには止み、青空をのぞかせてくれた。
 7時過ぎには、先生方も学校へ集われ、夜中や早朝の雨で荒らされたグランドの整備に余念がない。秋の運動会を成功させようとする先生方の意気込みをひしひしと感じる。
 8時前には、もう子供たちが集う。子供たち一人一人の表情も喜びで満ちていた。
 私は、運動会の初めの話で、30年前の東京オリンピックの時、私自身がテレビの前であったが感動した、セイロンのガルナナンダ選手の話をした。そして、「一番はもちろん尊い、しかし、一番より尊いビリだってあるのだ」としめくくった。
 その話のせいか、子供たちの演技には、力がこもっていた。一人一人の子供たちが、力の限り自分の持てる力を出し切っている姿に私は感動し続けた。
 運動会に集った全ての人が、感動の渦に巻き込まれたのは、5年生のリレーの時だった。
 松田明大くんの車椅子走であった。
 彼は、友生養護学校に通学しているが、1週間に1日、本校で学習に励んでいる。
 昨年までは、リレーは先生に車椅子を押してもらって、参加していた。しかし、これでは松田君の本当の力は発揮できない。なんとか松田君の持てる力を発揮させたいという先生方の思いと、松田君の思いとが一致して、わずか7メートルという短い距離だが、彼自身が一人で車椅子を走らせるのだ。
 彼の不自由な左手のみで、しかも、後ろ向きで走らせるのだ。体育館で練習は続けているのだが、運動場で走らせるのは初めてこと。しかし、彼はそれに挑んだ。
 緊張のせいか、体の調子のせいか、思うようの動かない。1メートルを進むのに、1分はかかったであろう。しかし、彼は歯を食いしばって動かし続ける。せっかく10センチほど進んだと思ったら後づさり、5年生の子供たちはもちん、すべての観衆が拍手で応援。保護者の席から、「頑張れ、頑張れ」と声がかかる。
 あと3メートル、一生懸命に左手を働かせている。しかし、動かない。あと2メートル、止まってしまった。少しでも車椅子が動きやすいようにコース上の砂が取り除けられる。あと10センチ、観衆の応援がピークに達する。
 ついにゴール。号砲が鳴る。拍手の嵐。彼の満足した笑顔が涙で見えない。
 10分間かかったであろうか。持てる能力を出し切った彼の姿に全ての観衆は感動した。
 彼がゴールしたその後、5年生のリレーが再開された。どの子供たちも、たとえビリでも、力の限り走り続けていた。
 
 この9月に転入してきた、5年生の上藤かすみさんは、その時の感動を作文に書いた。

 一生懸命になった瞬間
 リレーの時、松田君が車いすで一生懸命進んでいくのを見ていると、知らないうちに私までが、一生懸命になって応援していました。私が松田君になったようにがんばって。
 あと少し、あと少しだよ、がんばって、という気持ちで、応援していました。あと、ほんの少しというところで進まなくなりました。先生も動きやすいようにしていました。だけど、松田君はそれにもかかわらず、がんばってゴールできました。
 一生懸命に応援しているのに気がついた瞬間、私自身ががんばって走り終わったときのようにつかれ、それとうれしいという気持ちで「ふう。」とため息がでるほどでした。手を見ると、はく手で応援していたせいか、手が少し赤くなり、あせがでていました。
 私は、自分ががんばらなければいけない時に、自分で言い聞かせるようにがんばろうと思ったことは、何度もあるけれど、他人で、それもあまり知らない人のために、あんなに一生懸命になって応援したのは初めてでした。
 松田君がゴールした時には、私までがうれしかったです。
 これからも、松田君のようにがんばっている人を見かけたら、応援してあげようと思いました。
 
 自分の持てる力を最大限に発揮させるということは、人に多くの感動を与えるものである。
 「やまびこ」の表紙にいつもカットとして描かれる、星野富弘氏の詩画は、自由に動かすことのできるただ一つのもの、口に絵筆をくわえ描かれたものである。国体の体操競技の選手であった星野氏であったが、それをすべて捨て去り、残された口だけを最大限に生かし、力の限りその能力を発揮されている。その素晴らしい生き方が私たちに大きな感動を与えるのみか、生きる力を与えてくれている。
(詳しくは、やまびこ №9を参照してください)
 
 瞬きの詩人と言われている水野源三氏、いま彼の生涯を描いたビデオが制作中だが、彼は、小学校4年生の時に赤痢に侵され、体の自由が全て奪われてしまった。源三氏に残されたものは、見ること、聞くことだけになった。しかし、彼は残された瞬きのみで、多くの詩や短歌を残した。
     ありがとう
   物が言えない私は
   ありがとうのかわりにほほえむ
   朝から何回もほほえむ
   苦しいときも 悲しいときも
   心から ほほえむ
 源三氏は47才で天に召されるまでに4冊の詩集をのこしている。そのいずれも、瞬きのみで書かれた詩である。そのいずれもが、変わらぬ愛に潤された詩である。
     (こんな美しい朝に 瞬きの詩人 水野源三の世界より)
 
 ここで書いた人だけではない。多くの障害を負わせられた人たちが、残された力を最大限に生かし、力の限り歩み続けられている。この姿は美しく、尊い
 一人一人の子供たちに与えられたものは違う。しかし、その力を最大限に発揮させていく。この所に教師の大きな努めがある。私たち教師に与えられた課題は大きい。
 
 10月も半ばを過ぎた。通勤の途中で見られる、庭に植えられたリンゴ。もう紅く色付き収穫の日を待っている。
 喜びに満ちた秋が、私たちの目の前にある。
神戸市立唐櫃小学校学校だより「校長室の窓から やまびこ」
1964年10月17日発行

 編集後記
 保育所からザクロをいただいた。真っ赤な実が甘酸っぱかった。子供の頃に食べた時は、甘い味に満ちていたが、あの頃は甘い物に飢えていた。
 体育の日には、下唐櫃も上唐櫃も秋祭りだった。今年もお御輿と一緒に秋の唐櫃を歩いた。今年は野の物が豊作で山の物は不作だそうだ。でも、唐櫃で採れた松茸が供えられていた。道中でいただいた栗や枝豆、秋の味に満ちていた。今年も素晴らしい秋を楽しむことができた。幼い頃に帰った一日であった。
 №16で書いた8月15日の常澤校長の思いが、多くの方々のご尽力で読めた。
  全面的降伏 大東亜戦終結  帝国軍達ニ未曾有ノ聖断
  涙ヲ拭ヒ面アゲテ 起テ青年日本建設ノ先達トナラウ
敗戦を乗り越え新日本建設への意気込みが感じられる。 (鎌野)