忘れらない恩師

随想18
鎌野健一

11月14日の朝、「唐櫃が好き」の歌声が唐櫃の山々にひびいた。子供たちの表情も明るかった。「大人になっても忘れない そんな唐櫃がぼくは好き」と歌う子供たちの眼は光っていた。「大人になっても忘れない そんな唐櫃が君も好き」と歌う子供たちの笑顔は優しかった。

開校記念日の11月14日の朝、私は唐櫃小学校に残る二つの宝物について話をした。
一つは、明治25年9月1日有馬郡第19区唐櫃簡易小学校から唐櫃尋常小学校に校名が変更になった時から記録されている在籍者名簿、もう一つは、100年以上も前に作られた(唐櫃簡易小学校時代)戸棚である。
そして、歴史と緑にみちたこの唐櫃小学校で学ぶすばらしさを子供たちに伝えた。また、唐櫃を愛する多くの人々によって支えられ、育てあげられてきたこの唐櫃小学校の子供であることに誇りを持つようにと勧めた。
今年の開校記念日は、昨年のような派手さはないが、意義ある時であった。

私が卒業した小学校は、本校と同じように明治6年に開校した兵庫県氷上郡柏原崇広小学校である。唐櫃小学校の初代校長林雄太郎氏は氷上郡柏原町出身であるというから、ひょっとしたら大先輩で同窓生かも知れない。そうであるとするならば、私が今ここにあるということの不思議さを感じる。
学校の後に大内山がある。とても思い出の多い山である。また、夏になるとよく川遊びをした柏原川が流れている。まわりは山に囲まれ、田畑も多く、この唐櫃と自然の様子がとてもよく似ている。
私がこの学校に赴任して3年目に入っているが、この学校に来た時からずっと、この唐櫃が好きであった。私が幼少時代を過ごした故郷とイメージが一致したからであろうか。
何はともあれ、「唐櫃が好き」を歌うと幼い頃のいろいろな思い出が浮かぶ。国民学校時代(現在の小学校)の何人かの先生の顔が浮かぶ。

その一人に、芦田武先生がある。
芦田先生に担任していただいたのは、大東亜戦争(第2次世界大戦)末期の昭和20年、私が5年生の時であった。日本の都市部はアメリカ軍の空爆のため、都会は焼け野原であった。そのため、学校の講堂が軍需工場(戦闘機を造るための部品を作っていたらしい)として使われていたような時代であった。
私の父はこの柏原の地で昭和の初めから、キリスト教の牧師をしていた。戦前はそれ程の迫害はなかったが、戦争中は、特に後半は敵国思想の宗教であるということで、警察の取り調べも厳しかったようである。そのため、私も多くの同級生からスパイ呼ばわりをされていた。そのため、軍需工場のあたりに行くと「あっちへ行け」とばかりに、石を投げられたものである。
ある時、あまりの悔しさに「僕のところはスパイとちがう」と同級生の一番力の強い子にはむかった。そのため、彼の履いていた下駄で頭を殴られた。しかし、その時「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ」という聖書の言葉が浮かんだ。私は彼のなすままにされ、気を失ってしまった。気がついた時は、もうあたりは暗くなりかけていた。
そのような私であったが、芦田先生は私をいろいろな時にかばっていてくださっていた。ある時「先生は、君をスパイだとは思っていないよ。友達の言葉など気にせず、がんばれ。」とそっと言ってくださった。(公に私をかばうことができない時代であった)
1学期から8月にかけて、ほとんど毎日、山に枯れ木を切りに行っていた。
一番小さく、空き腹で歩く力もなかった私を先生は手を引いてくださっていた。そして
「昔 むかし その昔 椎の木林のすぐそばに 小さいお山があっ たとさ あったとさ
と「お山の杉の子」の歌を教えてくださり、みんなにいじめられている小さな杉の子だって大きくなって役に立てるのだと、小さな私を励ましてくださっていた。
その年の8月に終戦。2学期(私の記憶では11月頃でなかったかと思うのだが)占領軍の命令で教科書の至るところを墨で消していった。芦田先生の言われる所をすべて、墨で消していく。特に戦争賛歌に関するところは、真っ黒く塗っていった。
その時の芦田先生の顔は見ておれなかった。その声は涙声であった。何度も何度も、黒板の方を向いては涙を拭っておられた。今まで正しいと信じ私たちに教えてられたことがすべて崩れ去っていく。教師として、耐えられない痛みであったであろう。

芦田武先生は、今も元気で氷上郡の方で過ごされていると聞く。

11月19日、私にとって唐櫃での3度めの音楽会が終わった。子供たちの歌声は、明るかった。やさしかった。美しかった。合唱曲「木琴」を歌った6年生は、戦争の悲惨さを歌った。「関係のない人まで巻き込んだ戦争へのお兄さんの怒りの気持ちをお兄さんになりきって歌いたい。」と述べていた。
私の小学校時代のあの苦しみを、この子供たちに、今から生まれてくる子供たちに体験させたくない。

唐櫃の美しい秋は、紅葉に彩られ輝いている。

編集後記
今年の音楽会も前日は雨であったが、当日は秋空がのぞく、暖かい一日であった。
10月下旬から練習を始めた音楽会であったが、子供たちはのびのびと自分の力を発揮し、一人一人の心にひびかせる合唱を、演奏を聴かせてくれた。
しかしながら、練習を始めた頃は、思うようにいかず嘆きの日々を送られた方もいた。ある先生は、録音した演奏を聴きながら鏡に向かい指揮の練習を重ねていった。うまく指揮ができず、夜も眠れない先生もいた。自分の指揮をしている様子をビデオに撮り、それを見つつ、反省を加えていった先生もいたという。
子供たちも、たった10分足らずの演奏であるが、何度も何度も練習を繰り返し、より美しいハーモニーを奏でるために努力した。
教師も子供たちも、音楽会の練習を通して、大きく成長してくれた。私は子供たち一人一人に、教師一人一人の心からの拍手を送りたい。
2学期は、運動会や音楽会の大きな行事がありました。多くの保護者の皆さんが子供たちの様子を見ていただきうれしいかぎりです。どうか、保護者の皆さんのご感想をお知らせください。子供さんを通じて私まで届けていただけるとうれしい限りです。どうかよろしくお願いいたします。
(鎌野)
神戸市立唐櫃小学校「校長室の窓から やまびこ」1994年11月号より