あの夏の日から49年

49年前の8月15日も、今年のように暑い日だった。雲一つない夏空が広がっていた。

太平洋戦争中、日本に天気予報はなかった。空の情報は軍事機密だったのである。その日、日本の空は必ずしも青空ばかりではなかったという。北海道、東北の一部は曇り、また一部では雨がばらついていたという。この唐櫃の地でも青空が広がっていたと当日の学校日誌に書かれている。(学校日誌の記録 天候晴、気温29度)

その日の朝の新聞の配達はなかった。その代わり、回覧板が回された。それには「今日の正午に重大な放送があるので、聞くように」と書かれていた。
その年の8月は、私は21日間学校へ登校している。学校に行き、荒れ地を開墾したり、山から木炭を運び出したり、松の根を掘り出したり、枯れ木を切り出したりしていた。

唐櫃国民学校の8月の学校日誌にも、初等科1年生(今の1年生)を含め全校生は食料増産のために登校、田畑の除草、草刈り、施肥作業、6年生の男子は防空壕掘り、そして、高等科(今の中学1・2年生)は桐畑へ製炭作業に出掛けると記録されている。

8月15日、その日はうら盆で学校は休業だった。

どの家もラジオがあるような時代ではなかった。学校や役場などの公共施設ぐらいにあるだけであった。私は、11時過ぎ頃から家のすぐ側にある、役場の宿直室から聞こえる放送に耳を傾けていた。11時頃に「空襲警報」が発令された。ところが直ぐに解除になった。近畿地方各地に出されていた「空襲警報」「警戒警報」は、不思議なことに12時前には全て解除になった。 正午、君が代が演奏され、放送が始まった。役場に居られる方も起立してそれを聞いた。どういうわけか、その時のラジオ放送は雑音が多く、天皇陛下の話し方も一種独特だった。もちろん、天皇陛下がラジオ放送で放送されることもなく、また、ほとんどの国民はその肉声をも聞いたことはなかった。

「ちん」という言葉を使っておられたので、その意味はあまりよく分からなかった。ただ、「しのびがたきをしのび」という言葉がやっと理解できたが、他は全く分からなかった。そして、君が代が流れ出し、ピピーイといって放送は終わった。

その放送(後から玉音放送と呼ばれているが)を聞いた後、多く人が泣いていた。私は、「なんで、泣いとってやん。」と聞いた。ぽつんとひと言「日本、戦争に負けた。」という声が返ってきた。私は何のことか分からなかった。「欲しがりません、勝つまでは」「撃ちてし止まん」「一億総玉砕」「神国日本」という言葉が満ちていた。夏休みも、兵隊さんのためにということで、木炭を作ったり、薪を取ったり、松根油(ガソリンの代用品)を作るために、松の根を掘り起こしたりした。

また、「兵隊さんもご飯を食べないで外地で戦っておられる。内地におる私たちはご飯を食べないで、我慢しよう。」ということでサツマイモの葉やつる、大豆の油を絞ったかすを、腹三分目ぐらいしか食べなかった。サツマイモやカボチャが食べられるはたいへんな御馳走であった。だのに「戦争に負けた」という。私は信じられなかった。

暑い午後だった。

いたる所の空き地には、黄色いカボチャの花が満ちていた。

ミンミンゼミの鳴き声が、すべての音を消し去ってしまっていた。 夜、暗くなり始めた頃、8月15日の朝刊の新聞を配達に行った。 その日の新聞は、B4の大きさ一枚であった。

私は、その新聞を見て、びっくりした。

『ボツダム宣言受諾』『無条件降伏』『大東亜戦争終結』と大きく書かれた文字と、宮城前で平伏して泣く多くの人の写真を見た。
日本は戦争に負けたのだ。未だかつて、戦争に負けたという経験のない国民が初めて味わう敗戦であった。

その夜は、家から灯が洩れていた。真っ暗な夜道ではなかった。(戦争中は燈下管制といって、灯が外に洩れることのないように電燈の回りを黒い紙で巻いていた)

唐櫃国民学校の学校日誌には、8月15日の欄には何も戦争終結のことが書かれていない。ところが、8月14日の欄に、墨で走り書きがしてある。

全面的降伏 大東亜戦終結

○○○ニ未曽有ノ聖断 涙ヲ拭ヒ面アゲテ起テ○○日本

建設ノ先達トナラウ  (○は読めない漢字)

当時の常澤校長の字だろう。気が転倒していたのだろうか。8月15日の所に書くべきのを、14日の欄に黒々と書かれている。

49年前のこの日のことは、あの青い空、そして至る所に植えられたカボチャの黄色い花と耳につんざくセミの鳴き声がビデオ映像を見るように浮かぶ。夏であるのに、アサガオの花はその夏の記憶に全くない。その代わり、学校の運動場いっぱいに植えられたサツマイモに花がいっぱい咲いていた。薄紫の朝顔にそっくりの花が目の前に浮かぶ。

49回目の終戦記念日のこの日、日本武道館で全国戦没者追悼式が行われた。正午、甲子園では第2試合の途中で戦争犠牲者に対して、黙祷のサイレンが鳴った。今大会最高の5万8千人の観衆、そして北陽、市川高校の選手らが静かに目を閉じた。その時の甲子園の気温は33,5度であった。
平和であること、何と素晴らしいことであろうか。

編集後記

暑くて雨がない夏であった。

唐櫃の農家の人々の中には、とくに上唐櫃には、田に水がなく、折角実った稲が枯れていく(唐櫃ではこのような状態になることを「火が入る」と言うそうである)のをただ見ているだけでどうすることもできなかったそうだ。夏の終りには、もう諦め切って、見にも行かなかったと言われた。3月から大きな期待を込めて、米づくりに労苦された人々の痛みがひしひしと感じる夏であった。

でも、盆おどりの時は遅くまで、太鼓の音が唐櫃に響いた。上唐櫃にも、唐櫃台にも、畑山にも、水無にも唐櫃の子供たちが、一日の勤めを終えられた方々が集われた。

地域の方々と踊る子供たちの表情は、私に大きな喜びを与えてくれた。明日の唐櫃を生きるこの子たちに幸せがあるように祈らざるを得ない。
来月はもう秋祭り。豊かな自然の恵みを感謝したい。

鎌野 神戸市立唐櫃小学校 「校長室の窓から やばびこ」(1994年9月号より)