67年前の8月15日

それは、わたしが国民学校5年生の夏に日だった。
67年前の8月15日は大変暑かった。空き地のいたるところにはかぼちゃの黄色い花が咲いていた。
その日朝から隣組の回覧板がまわり、12時に大切な放送があるからラジオを聞くようにとの連絡が回った。各家にラジオがあるわけでなく、わたしは教会堂の隣にある役場に聞きにいった。役場の職員、近所の方々が集まっていた。空襲警報は発令中であった。ところが不思議なことに、12時前にすべての空襲警報が解除になった。
12時の合図とともに、ラジオは多くの雑音が入り聞きにくかった。天皇陛下のお言葉であった。十分に聞き取れなかった。すべて終わる前から、大人の人は泣きじゃくり始めた。わたしは、そばに居られた方に「何の話だったのですか」と聞いた。「戦争に負けた」ということであった。ところがある方に聞いた。その方は「本土の決戦が近づいたから全員死ぬ覚悟で頑張れ」といわれた。でも多くの方は「日本は米英(アメリカとイギリス)に負けた」と言われた。どちらが正しいか分からなかった。でも多くの方が日本は戦争に負けた」と言われ泣きじゃくっておられた。
でも、わたしには涙が出なかった。なんだかほっとした思いになった。「これでみんなからいじめられることがなくなるなあ」という思いが頭によぎった。でも口には出せなかった。
 父はキリスト教会の牧師をしていた。伝道ができるはずがない。信徒の多くは教会から離れていかれた。しかし、古くからの信徒の方が、わたしたちに食べ物をもってきてくださり、なんとか餓死することなく過ごせた。
 また、父は警察から何度も呼び出されていた。わたしたちも学校でも近所でも「スパイ。スパイ」と呼ばれ、先生からも厳しい目で見られていた。彼らと一緒に遊ぶ事がなく、いつもひとりで過ごしていた。食べ物も十分になく。いつも空腹のままであった。子どもが6人いたので、母はわたしたちに食事を与えるために苦労をしていた。
 わたしは国民学校4年生から新聞配達をして生活費をまかなっていた。月に6円のお金をもらっていた。それを全部母に渡していた。
 この日は夕方にその日の新聞が届いた。わたしは新聞を配達するために出て行った。その日の新聞はB4一枚(B3半折だったかもしれない)という新聞であった。それには「米英に全面 降服」と「宮城前に泣き崩れる人々の写真」が頭に焼きついた。
 この時わたしは、本当にほっとした。「これでいじめられることがない。友だちといっしょにあそぶことができる。」という安心感が心によぎった。しかし、わたしのこの思い通りにはいかなかった。「お前らがスパイをしたから、日本は負けたのだ。」という声にかわった。
 しかし、その声は次第に遠のいていった。
 大東亜戦争が始まった1941年12月8日 父はわたしに「あーあ、これから本当の戦争が始まる」と語って3年8カ月余り、多くのキリスト者を親に持つ子供たちはわたしのような苦しみつつ少年少女時代を送ったのである。
わたしは長い間、戦争が終ったとき、「ホッとした思いになった」ということを語ることはできなかった。

 あの日から67年、わたしたちの家族は主の恵み中に育まれている。父も母も主への奉仕を全うして天国に凱旋していった。わたしの兄弟姉妹全員キリスト者として今日も歩んでいるだけでなくクリスチャン3世、4世の子どもたち、孫たちに囲まれている。
 たとえどのような苦しみの中に歩んでも、主ご自身はわたしたちを育み守り導いてくださる。主の御名は崇めるべきである。
「主は今に至るまでわれわれを助けられた」サムエル上7章12節