生きる喜び

随想19
鎌野健一

 
「私は生まれてからずっと見るということを経験せずに今日まで きました。生まれて6か月、未熟児網膜症であるというふうに診断を受けました。それは大阪の阪大病院でした。主治医の先生は、今の医学では残念だけれど、もう視力が回復するということはないんでしょう。そういうふうにいわれました。しかし、体というのは目だけではありません。主治医の先生はそういうふうにおっしゃったんです。しかし、両親にとっては、もう私が全く見るということが、これからないんだということを聞かされてからは、さすがにショックだったようです。これからの長い人生の中で、この私が本当に心の底から喜ぶということがあるんだろうか。心から笑うということが、果たしてあるんだろうか。このような悩みでいっぱいでした。

当時、私は全くその笑わない赤ちゃんだったようです。泣くということはありましても、笑うということがなかったのです。両親は、一生懸命私を笑わせよう、喜ばせようとするんですが、笑わない子だったというのです。

ある時、これは5月のある日のことだったんです。父は重い気持ちで私を抱いて散歩に行きました。私の家の少し上に小高い丘があるんです。父は私を抱いて、その丘に上りました。ちょっと一息入れようかなあと思って立ち止まったんです。そうしますと、海からさわやかなそよ風がサアーと吹いてきたんです。このそよ風を体に感じた時に、今まで全く無表情だった私が初めて喜んだんですね。手足をバタバタさせて、喜びを体いっぱいに表現したんです。

それを見たときに、これから私を育てていこうという勇気が、元気が出てきたという話を折りにふれて、父は私にしてくれます。

私は最近思うんです。人間にとって喜ぶということはものすごく大切なことなんだなあ。喜ぶことができるというのは、生きていく上に非常に大きなことなんだなあ。いろんなことをやる上で、原動力になるような、そんな気がするんです。これは障がいが体にあってもなくっても、このまま喜ぶというのがあると思うんです。喜ぶ心、みんな持っているのではないでしょうか。毎日毎日の生活の中のちょっとしたことの中に、そういった喜びというのを見つけ出していく、見出だしていくことができたら、これは非常に豊かな人生といえるんではないでしょうか。」
 

とても長い引用であるが、これは先日、北神小学校連合PTA研修会の講師、バリトン歌手時田直也さんの語りの一部である。

時田氏は、歌と語りを通して、生まれてから見るという経験がないのに、喜びを体いっぱいに表し、私たち聴く者に大きな希望と、生きる喜びをあたえてくださった。素晴らしい研修の一時であった。

12月初めより、いじめによる中学生の自殺が続き、私たち教師の心を痛めた。いじめ、もちろんこれは許してはならない。いじめに対して、その絶滅を目指して、教師は毅然とした態度で臨まなければならない。それと同時に、たとえどのような事柄が起こったとしても、子供たちに生きる喜びを与え、生き抜く力を与えていかなくてはならない。これも、教師がなすべき大切な任務である。

 
しかし、私にはこのように大きなことをいう資格がない者である。なぜならば、私には悲しい思い出があるからである。

忘れもしない、1974年(昭和49年)10月20日の午後、私の教え子の一人が自殺をしたのである。

私は、彼女を小学校5年生6年生の時に担任した。

彼女は、とても聡明な子であった。そして、心の優しい子であった。学校でも家でも、勉強のことで友達つきあいのことで悩むことは何一つなかった。公立中学卒業後、長田高校神戸大学教育学部と進んだ。そして、神戸市の教員採用試験に合格した。昭和49年4月、神戸市のある小学校に教員として採用されたのである。

ここで彼女は元気に満ちた3年生を担任した。教員として初めてスタートする彼女にとって、活発な子供たちを指導していくのには荷が重かった。家庭訪問を繰り返し、保護者とも相談をし、多くの先輩教師にも協力を求め、なんとか、1学期は無事に終わった。

夏休みのある日、彼女は母親に「カマセンに会いたいなあ」(当時私はカマセンと呼ばれていた)と言ったそうである。

2学期に入ったが、事態は思うように進まなかったが、学年の先生の助けを受け、どうにか運動会も終わった。

運動会も終わったある日、彼女の友達の一人に「カマセンに会いに行こう」と相談をかけたという。私も教え子が、同じ教師になったのだから、一度励ましに行かなければとは思っていたが、小学生の時と住所が変わっていたため、会いには行けなかった。

そして、私は10月23日に初めて彼女の死を知った。

私は愕然とした。私の今までの教育は一体何だったのか。子供に何を教えてきたのか。知識ばかり教え、本当に生き抜く力を育ててきたのだろうか。彼女の霊前にたたずんだ時、私は泣きくずれてしまった。

 
その後、私は4年間言葉を話せない自閉症の子供たちのいる仲よし学級を担任した。そして、教育の真のあり方を求めていった。


その時に、友生養護学校から肢体不自由なY君が通って来ていた。彼は、ある日、カナタイプで打った訂正だらけの一つの詩を持って来てくれた。

キミノコトシッテイル
アルハルノアサ ウマレタキミ  フレテミレバ ヤワラカナキミガッコウカエリニ イツモミテタ ボクダッタ
アメヤカゼニモマケズ ガンバッタキミ 
イマ イロヅイテ シンデイクキミ
ヒトニフマレ カゼニフカレテチッテユク 
デモ マタ ハルサクラノサクコロ
ウマレテオイデ マッテイルカラ
ヤマモイロヅキ アカクモエサカル
タイヨウハ アカアカトモエサカリ イマ アキノオワリ
イキテイルッテスバラシイナア
コンドウマレテクルトキ
ミンナノヨウニ ゲンキナ カラダデ ウマレテキタイ ボク
ハナシテミタイ ウタッテミタイ ハシッテミタイ
イロイロナコトヲシテミタイ
デモ イキテイルカラ シアワセダト オモウ
デモ チョピリ オカアサンノバカトオモウコトモアル

 
彼に負わせられた十字架はあまりにも重い。しかし、その十字架を負いつつ「生きているから幸せだと思う」とうたう。

 
自ら命を絶った彼女に、どのような中でも生きているから幸せだという喜びを、生き抜く力を与えていればと思うと、私の力の足らなさを悔いた。そして、生きる喜びをすべての子供たちに与えていくことこそ、教師としての大きな任務だと思った。

 
「時にはつらい人生も 雨のち曇りで また晴れる」と「野に咲く花のように」を歌う時田直也さんの明るい歌声が、今も私の耳に響いている。

 
編集後記
今月号は、多くの保護者の方からの原稿を載せることができました。本当にうれしい限りです。学校側からだけの「やまびこ」では、ほんとうのやまびこにはなりませんね。呼び掛ける人、それに応える人があってこそ、本当の「やまびこ」になります。ご投稿くださった方々に心からお礼申し上げます。ありがとうございました。

1月、2月、3月に発行する「やまびこ」には、もっと多くの保護者や地域の方々のご投稿を待っています。できましたら、10日ぐらいまでに校長室まで、お子様を通じて届けてくださればうれしい限りです。「やまびこ」のご感想、お子様のこと、教育のことなど内容は自由です。それではよいお年をお迎えください。鎌野

神戸市立唐櫃小学校「校長室の窓からやまびこ」1994年12月号より